人間社会と習性

                   
                    
滝山病院事件をきっかけに入院を考える 

  

 

 

 

 もくじ

      

     はじめに

   社会はボロボロ?

   社会は作るもの

   異なる者たちの共通話題

   社会は作っていた

   遺伝資源と社会

   言語機能の不具合

     おわりに

 

 

 

 

はじめに

 私にとって滝山「事件」に関するテレビ報道は、決して、入院者の置かれた待遇の不適切性だけを映し出してはいません。

広い意味での自分自身の「加害」的側面も映し出しているように思います。私は、社会的な意味での精神不調問題は、あるいは精神機能の「機能不全」に及ぶ問題だけでなく、少、中、高生などの自殺やその未遂、さらにはその一歩手前の精神の不安定状態に象徴されるような、人間同士の「つながり喪失」問題も、私も含めた日本人の「社会作り」問題のなかに織り込まれるべきものと考えています。そもそも私の場合、社会は、“作るもの”なのです。ここで言う社会とは、個人同士がお互い、ゆるやかに結びつき合って、協力関係が構築されている個人の集まりを言います。そしてこの集まりは、自分の所属していない小社会とも、友好的協力関係にあることも合わせ持っているというものです。

 これから書きすすめていく内容には、「違法な拘束…」のことは含まれていません。入院者の、“人に「会えない」ことから起こる”苦しみは、違法な待遇に処される場合とは限りません。合法の待遇の場合でも起こります。従って入院制度運用で生じる入院者の苦しみをなくすには、合法の制度“運用精神”を検証するところから取り掛かるしかありません。そのことを考えるためには、避けて通る訳にはいかないことがあります。それは人間が生きもの”であるという点です。“生きもの”は、生きもの「らしくない」環境下にあるよりも、生きもの「らしい」環境下にあった方が「よい」ことは自明のの理です。しかしそうは言っても、人間は、生きもの「らしく」生活している者同士でも、意見の相違から、争いを起こすこともあります。そこで両者の“言い分”を調整するためにも、目的に応じた制度が設けられることになりました。例えば教育に関する制度、福祉に関する制度、医療に関する制度などと…。色々ありますが、これらに限らず、どんな制度の場合でも、運用に当たっては、建前として、誰にでも等しく適用されます。制度下にある国民一人ひとりは、入院している、していないに関わらず、等しく扱われなければならないはずですから、個々間に差別的処遇はないはずです。入院している人も、“まだ“入院していない人も、どちらも、同じ“生きもの”としての人間なのですから…。

入院している人は、入院する1日前までは、“まだ“入院していない人でした。そして入院した人でも、なかには数日間、院内で過ごしたのち、退院して、一生元気に暮らす人もいます。さらに、精神不調を自覚する人や、不調を指摘される人の入院未経験者もいます。

生きもの人間は、どんな時でも、どんな場所でも「食う・寝る・あそぶ」の環境が必要な生命体です。人間生命体は、暫定生活地の「食う・寝る」環境が、従来と大きく変化することになったとしても、「あそぶ」の営みが他者に妨げられていいはずはありません。入院当事者は、従来の人間関係を維持する必要があります。

ところが、同意(任意・法第20条) )入院の場合でも、入院者は、開かれた野外などでの人的交流、野山などでの動植物との気ままな接触、友人との語らい、親の介護、愛犬のケア、「自由」な外泊行動は許されません。本来なら、制度が「活用」される場合は、制度運用の“趣旨”に沿って運用されるはずではありませんか?ところが、その制度の趣旨に反する制約が、入院している人に課されています。これは“おかしい”ことではありませんか。

「生活、社会、遺伝、習性、作る」の5つのキーワードから、その当たりのことについて考えてみることにしました。この5つのキーワードは、人間であれ、野生ライオンであれ、ミツバチであれ、「生きものの“生きる”」を、考察(観察)するためには欠かすことが出来ないものです。

 

 

社会はボロボロ?

 人々のなかには、経済成長を追い求めようとする精神構造と、その具体的追求行為の「文脈」の先に、「暮らしやすさ」、「穏やかな生活」、「幸せな生活」が待っていると考えている人もいるようです。少なくとも私の周りには、そう考えているようにみえる人が何人かいます。

「成長」の言葉の持つイメージは、私の場合、「歓迎して受け入れたくなるもの」です。しかし、「成長」の、そもそもの意味は、生物の有する特徴の一つを表す言葉です。生物には、必ず死が訪れます。経済にも、死(経済活動の終結)が訪れるのでしょうか?経済活動は、膨張することはあっても、「死ぬ」ことはないと思われます。現代社会にあっては、個人たちの生産(採取)物所有権移転に際して、貨幣の介在しない移転は考えられません。あるいはサービス提供に際して、貨幣の介在しない提供は

考えられません。

 経済活動は、事実上、道具の製造と販売活動を中心とするものです。お金は道具(手段)のはずです。道具が必要ないと言っているのではありません。必要なものです。しかし、宝くじで一億円当たったとしても、そのお金を医療の充実なり、各種民間福祉会社サービス、行政福祉サービスの充実のために投入すれば、精神の機能不全状態をダイレクトに改善することが可能となるのでしょうか?

 障害者の社会参加を標榜したり、社会とのつながりが必要だと主張される方がおられます。そこに異論はありません。しかし、つながろうとする現社会は、ボロボロの状況(惨憺たる状況)だとは思いませんか?

現社会がボロボロでないなら、何故、学齢児童や青年たちが、現社会のなかで「自死選択」の道に追い込まれていくのでしょうか?

 

 

社会は作るもの

 私たちは、「人間らしい」社会を創出する必要があるのだと思います。「人間らしい」社会の点在する大地を“つかみ取る”とは、経済を活性化(成長)させることでしょうか?道具としてのお金を、必要量を超えて稼ぐことでしょうか?そのために、日本全体の商品生産量と消費量をふくらませることでしょうか?その時同時に、必然的に発生するゴミ(売れない生産物)とは、どう向き合っていけばよいのでしょうか?とりわけ人工的に作り出される、地球に還元しない、土中、水中、空中に混入した(する)合成分子(ゴミとは限らない)には、どう向き合っていけばよいのでしょうか?

 「社会を作る」という時の社会には、個人と個人がゆるやかにつながった状態が内在しています。個人同士がお互いに、前向きに、相手を求め合い、影響し合います。そうすることで個々は益を享受します。自然と一体化した、ある種生き物の「集落」にて。

個々は「集落」が本能的に必要と感じます。「集落」には顔なじみの人がいるからです。その、知っている人が恋しくなります。だから私たちは、社会のなかで生きようとするのではないでしょうか?仮に、おしなべての社会一般が、社会「らしく」なっていないと思うなら、私たちが創出させるしかありません。見かけ上社会のなかで生活しているように見えている人でも、その社会の質が「お粗末」なら、社会のなかで生きているとは、とても言えません。劣悪な社会(人的環境)のなかにいるがゆえに、過酷な苦境に耐え続けている人もいますし、虐待の執行者になってしまう人もいます。

 広い意味での、自身の「加害」的側面とは、自分は長いあいだ、日々、「社会を作る」視点を持ち、「実践しては来なかったなぁ…」、という意味です。社会や周囲環境は、どこかの、優秀なウルトラマンのような人が、是正してくれるものと考えていました。しかし、コト(是正、改善)はそのようにはすすんではいかないだろうことが少しずつ分かって来ました。

 

 

異なる者たちの共通話題

 地域社会のなかには、元気で快活な人、静かでおとなしい人、歌の上手な人、へたくそな人、世話好きな人、人をいじめる人、いじめられる人、高額な収入を得ている人、ワーキングプアの人、健康上の問題をかかえている人、かかえていない人など、いろんな人がいます。

異なる者同士であっても、人々間には、会話が生ずるはずです。地域には、人の生活本拠地が複数ある訳ですから、そこで暮らす個々たちは、お互いに地理的に接近しており、対面して交流するのに好都合の状態にあります。

 一つの地域で暮らす人々は、確かに趣味も、職業も違います。学校へも行っていない学齢期の人もいれば、長い年数、勤務労働から離れている人もいます。

色々な意味で、個性あふれる人たちが暮らしています。虫が嫌いな人もいれば、つかまえて遊ぶ人もいます。政治的にも、考え方の異なる人たちであふれています。

では、異なった趣味を持つ人同士、考え方の異なる人同士は、お互い共通の話題がないのでしょうか?そんなことはありません。どんな人同士であれ、地域社会には、そこに住む人たち共通の話題があるはずです。

 地域社会には解決しなければならない課題も沢山あります。地域社会は、日本じゅうに無数にあります。

私たちは、すぐ近くに、そして少し離れたところにも、だいぶ離れたところにも、課題をかかえて、身動き取れずに、落胆している人もいるはずです。

本来ならば、一人ぼっち傾向にある人は、その人周囲の人的環境が、寂しさ緩和の役割を果たすものです。この「人間生きもの社会」機能は、人間以外の「野生動物生きもの社会」と、基本的に同じです。自然の一角を占めているところの、普遍的な、遺伝資源としての人間の習性が横たわっています。ただ、人間の場合、習性の「下地」の他、制度や管理なる概念が「かぶさって」いるところだけは異なっています。

 

社会は作っていた

 そもそも社会の誕生は、自然発生的に形成されるところから始まります。新生児と両親で形成される三人の社会が芽生えます。新生児がもう一人増えると、三人だった社会は四人になります。祖父母と同居している場合は、社会は六人構成となります。新生児は、自分以外の社会構成員から、成長に欠かせない、精神機能充実のための、「基礎訓練」を含んだ「生活益」を、これといった努力なしに得ることになります。触りたいから触る。舐めたいから舐める。引っ張りたいから引っ張る。声を出したいから出す。お母さんから歌声が聞こえるから聞き入り、歌いたくなって自ら歌うようにもなります。肌接触、じゃれあい、「聞く&話す」などの、コミュニケーションが、社会に所属する赤ん坊を始め、それぞれのメンバーを成長させます。

祖父母と両親という人的環境が、幼子を取り巻き、幼子もまた、両親たちを取り巻きます。小さな「集落」が自然発生的に生まれ、大切な役割を果たすことになります。

 やがて学校へ進学するようになる子供は、同級生たちとも社会を作るようになります。子供たちは、「社会を作る」自覚は持っていないのかもしれません。友達と遊びたいという、動物としての本能のような、必ずしも脳などの思考回路を経由するとは限らない、からだ内部の、“謎”の細胞部位から湧き出て来る、友達と遊びたい(コミュニケーションを取りたい)という習性(欲求)が、子供たちに発現します。

 数人で構成される「遊び=交流」の社会が、所属メンバーを緩やかに結びつけます。野生動物の社会のことは群(ムレ)と呼ぶ場合もあります。人間の場合も、野生動物の場合も、どちらも、社会が継続的な結びつき(コミュニケーション)の実行を「保障」することになります。

 

遺伝資源と社会

 個人が生きていく上で、小さな社会を形成してしまうことを、自然の成りゆきに由来し、受け継いだ遺伝子に、“「がんじがらめ」になっているから”とみるならば、小社会の誕生は、「よいこと」でもないし、「わるいこと」でもありません。小社会の誕生は、自然現象観察の結果、「みえ」たことに過ぎません。

 一人の人間が、空腹になってご飯を食べたくなるのも同じ理屈で、本人にとって食事をすることは、「よいこと」でもないし、「わるいこと」でもありません。個人は、社会を作る習性や、食う習性などを両親から、遺伝子レベルで引き継いでいて、両親もまた、先祖たちから引き継いでいた()だけのことです。呼吸するのも同じことです。

各個人は、生き延びようとして、他者に働きかけ、自ら社会作りに着手し始めます。

自ら行動しようとするところに「源泉」があります。その行動の試みは、幼少期に限って言えば、ほとんどの人が成功します。成功するのは、第三者に社会作りの営みを妨げられることが、ほぼ、ないからです。そうやって形成された社会のなかで生活しようとするのが人間なのだと思います。このような習性の出来てしまった生物としての、人間進化が、今も続いているのかもしれません。

生物の進化は、過去の自然観察の結果、みえた(検証された)事柄です。

一人の人間に、複数人構成の社会を作ろうとする習性が表面化するのは、幼少期に限った話ではありません。青年期、壮年期、老年期になっても言えることです。

私たちは誰でも、生まれてまもなくして、本人無自覚のまま、社会(友達関係)を作り上げてしまいます。それは社会(友達関係)の存在が生きるための「必要条件=習性」であることを示してもいるのかもしれません。

人間は、誕生してから死ぬまでのあいだに、脳などの思考の結果とは限らない社会を、そして、大脳中枢などによる思考機能も働かせての社会も作ろうとします。ホモサピエンス人間生命体は、他の、多くの生命体と同じように、生き延びるための習性を、DNA「螺旋ヒモ」のなかに「記憶」として収納しているようです。必ずしも脳などの思考回路を経由するとは限らない行動に、私たちは、どう向き合えばいいのでしょうか?

 生きものには、からだ内部の、どこかの細胞部位、例えば腸などから湧き出るものを起源として動いている(動かされている)部分があると仮定するならば、その動きを、私たちは黙認(尊重)するしかないではありませんか。公園のベンチに、うたた寝している人が座っていた時、無意識に営んでいる、その人の呼吸動作は見守るしかありません。あるいは邪魔しないで、立ち去るしかありません。

仮に第三者が、この人の後ろに近づいて、両手で口、鼻をふさいでしまうなら、ふさいでしまった瞬間に、ふさいだ行為の意味が問われなければなりません。ふさいだ行為は、「正しかった」のか、「間違って」いたのかの、ふさいだ人の理性(善悪)の問題が浮上することになります。呼吸のために、肺の機能が働くための、筋肉伸縮運動は、政治制度のあり方には関係ないし、地域風土にも、気候にも、その人の趣向にも、食べ物の好き嫌いにも、左右されません。人間は、自分の意思とは関係なしに生まれて来ています。習性を「携えて」誕生します。それを携えているがゆえに、習性由来の行動「様式」に沿って生きることになります。この「仕組み≒習性」から外れて生きることは出来ません。

人は誰でも、他者と関係を持たずに生きることは出来ません。だから友達も作ります。保育園児であろうが、小学生児であろうが、定年で勤務労働を終わらせた人であろうが、友達を作ってしまいます。高度な教育を受けて、優秀な学者、先生に、「社会作り」のノウハウを指導されなくても‥‥。

 一人の人間が、意識的であれ、無意識的であれ、幼少の頃に、あるいは青年の頃に、誰かと遊んだ経験があり、かつ、数日間、数週間、数ヶ月間といった期間に渡って、繰り返しの遊び(会話)を経験したのであれば、社会は出来ていた(作っていた)ことになります。

 青年期になって、賃労働に従事するようになると、幼少の頃に比べれば、小社会は作りにくくなります。それでも、なんとか職場外で出会いを実現して、例えばみんなで楽しむ音楽バンドグループ、街の清掃グループ、災害現場でのお手伝いグループ、在来植物育成グループ、おしゃべりも出来るカフェ運営グループ、100年後の森を見据えた植林グループなどの小社会を作る人もいます。年令を問わず、人は誰でも、会話を中心としたコミュニケーションを取りたくなるものです。第三者は普通、その人が誰かとコミュニケーションを取っている姿をみかけた時には、黙認するものです。何故黙認するかというと、自分もそっとしておいて欲しいと思うからです。あるいは自分も、コミュニケーションを取るために外出しようとする時に、外出行為を黙認して欲しいと思からです。呼吸している自分の肺の動きも、妨害して欲しくないと思うからです。もし、黙認しないで、「強い力」によって、社会的に認知された習性由来の動きを阻止しようとする人がいるとしたら、その試みは、自然「征服」への「挑戦」を意味することになります。「挑戦」しても、自然から「生みだされ」た人間が、「母体」である自然を征服することは出来ませんので、地球自然の一部を破壊することに手を貸すだけに終わってしまいます。

 他者と会話したくなるのは、理性に基づくとは限りません。空腹感覚を覚え、夕食を食べたくなったり、水を飲みたくなるのと、何ら変わるところはありません。

 

 

言語機能の不具合

 ところで、青年期には、まれに言語機能に不具合を呈する人がいます。一人の人間が、誰かとしゃべっている時、その人の精神機能が一時的に不調となった場合には、通常の精神生活を逸脱することがあります。

精神機能が一時的に不調となった人の発信の動き(意思表示の動き)では、「いつ、だれが、なにを、どうした」という、話の脈略が乱れてしまうことがあります。人との会話が成立しにくくなる状況が垣間「みえる」と、私たちは、その人を自分たちの社会(釣り同好会、草野球チームなど)に招かなくなる傾向にあるのではないでしょうか?そして、不調となった人の家族(親やきょうだいたち)もまた、「開かれた集い」の場に送り出そうとしない傾向にあるのではないでしょうか?

 私は、日本社会風土としては、何十年もまえから、あるいはもっと前から、その傾向が続いていると考えています。

精神機能の一部が機能不全となり、話の脈略が部分的に乱れてしまった個人にとって大切なことは、その人が、小社会のなかに居続けることです。人間は誰でも、小社会の一員として生活を営むような、からだの“つくり”をしています。

そう思う根拠を、下記に記します。大きく分けて3つあります。

 

 その1‥ からだの一部の機能劣化、不全、不調、“成長の足踏み”などが生じた場合、機能の復元(成長の再始動)を模索したいなら、不完全な状態のままで、不完全部位を「使う」行為こそが必要ということ。一般的には、その行為のことをリハビリテーションとも言う。言語機能(しゃべる機能)を働かせるための有効な基本動作は、しゃべる…こと。もちろん言語機能だけにとどまらず、他の部位、例えば腕や足、腹部など、あらゆる部位の筋肉も同じ。うた歌うことで音程が外れぎみになる人が、じょうずに歌えるようになるためには、しばらくのあいだ、音程が外れたまま、何度も、なんども「うたう」ことが必要。下っ腹部位などの「リハビリ」が必要。

一般的に言えば、「しゃべり」は、聞く人に聞こえるよう、投げかけるように発音すること。あるいは、手話や筆談などで投げかけること。一時間にも及ぶ独演会でなければ、「しゃべり」などは、それを「聞く」人の「しゃべり」を「聞く」こととセットでおこなわれる。そのことを会話という。会話を実行するための必要最低人数は、自分を含めて二人であるということ。うた歌うことも、聞く人が居る場合には、ある種の「会話」であるということ。

 その2 「聞く&話す」の、二人以上でおこなわれる“一つ”の事象は、人間が生活している事象そのものを現している。「聞く&話す」、つまり会話は、それ自体が目的達成のための手段になることもあれば、目的(生きること)に据えられることもある。会話の内容は、目的(目標)となりうるし、手段にもなりうる。(目的&手段)を明確に分けることは出来ない。何故明確には分けられないかと言うと、会話は、“生きること”そのものだから。ちなみに、ここでいう目的とは、生涯のなかでの時間軸上の目標地点のような意味。

 その3 よく、「子供は地域社会みんなで育てる(見守る)」などと聞くことがある。大人が、自分の子供だけでなく、よその子供にも目をかけて‥‥、よその子も面倒を「みる」、といったような視点は大切だが、子供も大人を育てる(見守る)側面がある。小社会のなかにいるすべての人が、育てる側にいながら、同時に、育てられもする。小社会のなかにいる個たちは、個性にあふれ、いろいろな意味で異なる。一般的には、人と人とのあいだに生ずる“助け合い”は、困りごとをかかえている人と、同じ種類の困りごとをかかえていない人とのあいだで、しばしば発生する。

 

おわりに

 私たちは、「人間(生きもの)らしい」社会(コミュニティー)を創出する必要があるのだと思います。あの事件に関しては、「らしく」ないと思える場面が、テレビ画面上で「みえ」ましたが、「らしく」ないと思える出来事は、場を問わず、世の中に氾濫しています。

退院希望者が退院して、孤立しない「生活の場=少社会」をみつけたい(作りたい)ものです。しかし私たち凡人に出来ることは、“いまのところ”、まだ調子を崩していない私たち自身の「生活の場=少社会(コミュニティー)」を、新規に作り始めることではないでしようか?

何故なら、生活の場(生活本拠地)は、一人にとって、日本の大地に、基本一つしか「ない」のです。私たちは、大地の上を移動しながら生活する遊牧民ではありません。「健康体」を自認する人たちのなかに、心身の調子を崩してしまう予備群が居るのですから‥‥。

少社会のなかの人間は、個性にあふれ、いろいろな意味で異なる者たちです。しかし、共通点もあります。生きものであるがゆえの人間の習性を、からだの“つくり”として持っています。

 持って生まれた習性の一部が、何らかの事情で著しく軽視され、「自由」なる行動が大幅に狭められると、その人は、生きる苦しみをかかえてしまうことになります。私が今回の「事件」から想起することは、入院者の「社会作り欲」に関わることです。「社会作り欲」は、食欲、性欲、睡眠欲などと「肩を並べる」位置にあるものだと思うのです。この地球上で、人間が生き延びようとするために、逸しては(軽視しては)ならない基本的なものの一つが、古代人から脈々と受け継がれて来た、人間の習性(社会的行動「様式」)ではないかと思うのです‥‥。そして、そのなかの一つに「社会作り欲」があるのだと思います。「社会作り欲」のなかに、「友達作り欲」もあるのではないでしょうか? 万人に認知された「社会作り」の営みは、お互いに大切にしたいものです。欲するも「社会作り」がかなえられない状態が、「つながり喪失」状態ではないでしょうか? 

 人間小社会は、地球資源の一角を占めながら、各人間生命体に益を与え続けています。古代人の習性を受け継いで来たと考えるなら、人間がまだ地球に存在していなかった時代のことも考える必要がありそうです。人間以外の生きものの遺伝資源のことにも想いを馳せる必要がありそうです。いずれにしても、古代人は、地球自然に“適応し続けて来た”とは言えそうです。
                      matebas 2023年930日(2023.年11月1日修正)